詩篇 23篇 1-6節 1
詩篇150篇の中で、もっとも有名な23篇は、その中で「珠玉(しゅぎょく)」 言われるほど輝いています。この詩篇はダビデの経験による祈りであり、 歌であり、信仰告白でもあります。多くの人々が、この23篇のよって、励ま され、力づけられてきました。今日の私たちもこのみ言葉を通して、主の高く、広く、深い恵みが 注がれ、主を賛美ささげたいと思います。 ダビデは、1節で「主は私の羊飼い」であるので、「乏しいことがない」と言われました。普段、この詩篇はダビデが自分の子「アブサロム」の反乱に よって、宮を捨て、逃げた時にささげられた祈りであると言われています。 いずれにしても、ダビデの主なる神へささげた素晴らしい信仰告白であり ます。 ダビデが、このように告白できたのは、なぜでしょうか… それは、造り主が自分の牧者である事を知り、また信じていたからでした。これは、だれでも主なる神様が私の羊飼いである事を知る事から、信じる信仰へ至れば、どんな状況に置いてもダビデのように告白できるという事です。それで、エペソ人への手紙4章13節では「わたしたちすべての者が、神の子を信じる 信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。」と言われたのです。もし、私たちも良き牧者である神様を、「ただ知っている」ところにとどまっていれば、ダビデのような信仰が状況によって言えないのではないと思います。要するに「知る」とこから「信じる」というところまで到達しなければなりません。知識的な信仰には、力も命もありません。自分を救えない信仰という事でしょう。これを、宗教生活(他の宗教と変わらないさまの事)とも言います。 主なる神様を「私の羊飼いである」と知っているのでしょうか?もしくは、信じているのでしょうか? 今の状況が大変苦しく、不平を不満があれば 「知っている」レベルに近いかもしれません。しかし、苦しい状況の中であってもイエス・キリストの平安が心に満たされていれば、「信仰している」 のです。この信仰ある者の苦しみには必ず終わりがあります。さらに、やがて栄光の冠を授けられるのです。 日々、良き牧者となられ、緑の牧場に導かれる主を堅く信じましょう。険しい道を辿っているとしても、主は「御名のために正しく導いて下さっている 事を信じましょう。必ず、終わりの日まで「勝ち余りのある勝利」を与え、 「主の宮に住まわせる」祝福があります。