マルコによる 福音書 11章 15-18節
17 そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての 国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではない か。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまっ た」。
“이에 가르쳐 이르시되 기록된 바 내 집은 만민이 기도하는 집이라 칭함을 받으리라고 하지 아니하였느냐 너희는 강도의 소굴을 만들었도다 하시매”(17절).
今日の本文は、イエス様が主の宮と呼ばれる、エルサレム神殿 で、売り買いをしている商売たちを追い出し、両替人の台や、 ハトを売る者たちの腰掛を倒されながら言われた言葉です。一 言で、「主の家は、あらゆる民の祈りの家なのに、強盗の巣に してしまった」という事です。
どうして、造り主に礼拝を捧げる場所が、売り買いの商売場に なってしまったのか、表では遠くから来た、巡礼者らに便利を 提供するという意味を持っていますが、実際には祭司たちと商 売する者たちの野合(やごう)があったのです。これは礼拝に捧 げる捧げものを通して、自分たちの私利私欲を満たしていた事 です。このように表に見えるものと見えない裏が全く違い、イ エス様はこれを「偽善」だと指摘されました。
偽善者は、表では人々に褒められることもありますが、造り主 神にとっては裁かれる事になるのです。従って私たちは、礼拝 を捧げる動機、主に仕える動機は何であるのか、日々省みる必 要があります。私が捧げる捧げものや献身が真の神の恵みによ るものか、自分のためなのか、もしくは宗教的な習慣によるも のかを考えるみ言葉であってほしいです。使徒パウロのよう に、「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主 のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたし たちは主のものなのである」ローマ14章8節